アウトローから普通の女子へ――『百日紅』(アニメ映画版)レビュー

2015年5月9日『百日紅』がアニメ映画化された。

原作は江戸風俗家・文筆家でもあり、漫画家でもある故・杉浦日向子の代表作である。浮世絵師・葛飾北斎と娘・お栄、居候の善次郎(渓斎英泉)らを中心に絵師、花魁、男娼、妖怪などさまざまな人物群像が描かれており、娯楽漫画のクオリティとともに、江戸風俗の資料としても価値が高い。

本作を読んで江戸という時代の息遣いに触れたような気になり、江戸時代の研究や創作を志す人も多いのではないかと思う。ちなみに本作は1980年代に『漫画サンデー』に連載され、現在はちくま文庫から上下巻が発売されている。

御多分に漏れず、時代劇オタクを名乗る筆者も同作のファンである。

筆者が、映画版を観に行ったのは2015年5月中旬の土日だった。が、90分後に劇場を出た時の感想は「これ(映画)は私の知っている『百日紅』じゃない…」だった。

その主な理由は、映画版の主人公・お栄の描かれ方の違いにあった。

原作のお栄は常に倦怠している。父の代筆に甘んじている彼女を見かねた版元が、絵師として一本立ちする話を向けても「めんどくせえ」の一言で断る。父親や善次郎に「人三化七(ブス)」と言われても、お洒落など絶対にしない。

浮世の出来事や女の幸せには目もくれず、いつも面倒くさそうな顔をしているアウトロー。それが原作のお栄のイメージだ。

一方、スクリーンに現れた映画版のお栄は真面目で健気な、まさに「いまどきの女子」だった。しかも「当時の価値観では不美人でも、今の価値観であれば美人である」という『村上〇軍の娘』ばりの苦肉の美少女補正設定がされている。

お栄は、父の破天荒さや仕事の壁に悩まされつつ、毎日一生懸命に絵を描き、恋をすれば顔に白粉や紅も塗る。映画の最後に、笑顔で「そこそこ楽しく生きているよ」と言う彼女の顔には、「めんどくせえ」と言い放つアウトローの影は微塵もない。

そりゃあ、美人で前向きでまじめで仕事も充実して恋もそれなりにしていれば、そこそこどころか毎日だいぶ楽しいだろうなと思う。

そんなキラキラしたアニメ版のお栄は女子としては確かにまぶしい。だが後年、父譲りの反骨と超絶の画力を持つ女絵師・葛飾応為として名をはせる女傑としての魅力は感じられなかった。

原作のお栄、そして葛飾応為の絵が持つ匂い立つようなロックな凄みとは、江戸という古い時代に生れ落ち、女であることゆえのあきらめや倦怠や鬱屈に縛られつつ、もがきながら自分を肯定するしたたかさそのものであると私は思っている。

だが時代の変化によって、大衆が「ヒロイン」に求めるものは違うのだ。

お栄がこの映画で共感を得るには、自由やロックやアウトローを抱えるマイペース女子ではなく「普通の女子」に変わらなくてはならなかったのではないか。

そもそも、漫画やアニメのキャラクターが時代を映す鏡だとしたら、20年以上前に描かれた作品の描写が現代風に変化するのは当然だ。今は、アウトローよりも普通の女の子が魅力的に映る時代なのだろう。

映画のエンドロールを観ながら、筆者は時代の変化を痛切に感じたのであった。

【作品情報】※原作コミック
・作者:杉浦日向子
・出版社:筑摩書房
・刊行状況:上下巻(完結)